「その時に備えて」に備えて(9) 何故「平成天皇」は誤りなのか? −田口 望−

田口望
田口望

 

 

 

 

田口 望
大東キリストチャペル 教役者
大阪聖書学院 常勤講師
日本キリスト者オピニオンサイト -SALTY- 論説委員

気になる言い回し

 「その時に備えて」の冊子の中には次の表現は見当たらないのですが、5月に天皇の代替わりが行われてから、わずか2か月足らずの間に、以下のような大変不適切な表現に私は既に3回も遭遇しています。みなキリスト教関係団体の講演や文書ではあるのですが、日時や場所、発言のでどころもみんな違います。その表現とは

「平成天皇」

です。

 私が右翼だから、あるいは尊王家だから言葉尻を捕まえて、
「『平成天皇』などという呼び方は不敬である!『先帝陛下』、『上皇陛下』、あるいは明仁上皇陛下、と呼べ」
といいたいのではありません。やたらと言葉遣いにこだわるメンドクサイ親父になるつもりや、天皇や皇室に対する尊敬を強制しようなどというつもりは毛頭ありません。尊敬したくないなら、「明仁上皇」、「上皇明仁」とよんでもかまわないし、個人的には大変違和感を感じますが「前天皇」でも間違いではないのです。ましてや講演や論述で、明仁上皇のあり様を議題とするならなおのこと敬称を用いないことも許容されるべきです。

 しかし、それでもこの「平成天皇」という表現はいけません。この表現を使っている人たちはきっとわかりやすい表現のつもりなのでしょう。「将来的には明仁上皇の死後は平成天皇と呼ばれるに決まっているのだから構わないじゃないか」と思っているのではないでしょうか?それ間違いです。

誤りの理由その一、上皇明仁の生前に使うことは侮蔑表現になるから

 この「平成天皇」という表現は礼儀や敬語以前の問題で、下手すれば侮蔑表現ともとらえられかねないのです。九条天皇、後醍醐天皇、明治天皇などの名称はみなその天皇の本名ではありません。「追号(ついごう)」といって、死後、生前の功績をたたえて、死者に対しておくる名称なのです。ざっくり言えば戒名みたいなもんなのです。(仏教学的には死後に戒名を送るという習慣自体が間違っているというがここではその問題にふれない。)

武蔵陵墓地入り口
武蔵陵墓地入口(東京都八王子市)ウィキペディアより

 私も、田口先生、田口さん、田口先輩、田口兄、田口と呼び捨てで呼んでいただいてもかまいませんが、さすがに私が生きている間に、「故 田口 望」と表現されたら怒ります(笑)。生きている人を死んだ人のように表記するのは、「わかりやすい」、「わかりにくい」以前に大変失礼ですよね?また、その文書が書かれた時点で私が生きているのに「故 田口望」等と書かれたら、私が死んでいると断定していることになりますから、事実かどうかという意味でも間違いですらあるわけです。

誤りの理由その二、そもそも上皇明仁は死後「平成天皇」の追号をうけるかどうかは決まっていないから

 もしかしたら「平成天皇」という用語を使うキリスト教団体の指導者の方々は、現在の天皇を今上天皇とよび、次の代になってからは「元号+天皇」と呼ぶと理解しているのかもしれません。が、これも誤りです。そもそも、明仁上皇が亡くなった後、追号が「平成天皇」になると確定しているかといえば、そうとも限りません。明治期に「一世一元の制」が出されたために、ここ200年の天皇家のトレンドは3代続けて「元号+天皇」になっていますが、元号が追号になるのは皇室の歴史の中でもレアです。日本史で習った後鳥羽天皇や後醍醐天皇、白河天皇などを思い出してみれば、「後鳥羽」や「白河」なんて訓読みだったり、地名だったりしてるのだから、天皇の追号が必ずしも元号にならないことくらいは、少し考えてみればわかると思うのですが…

平成天皇以外になるわけない?!まだまだあるある追号候補

 もちろん、明仁上皇が死後、天皇在位中に30年間使用されてきた元号を以て追号にされて、「平成天皇」になる可能性は高いでしょう。しかし、そうとは限らないのです。30年間の在位以外にも明仁上皇には歴史的な偉業がいくつもあるのです。例えば明仁上皇は400年ぶりに土葬ではなくて火葬されること選ばれた天皇です。将来的には荼毘に付されて武蔵陵に葬られる予定ですから、陵墓から名前をとって「武蔵天皇」あるいは「多摩天皇」と呼ばれる可能性が十分にありえます。また、憲政史上初、200年ぶりに譲位した天皇でもあるわけです。隠居して仙洞御所(譲位された天皇の住処という意)となる赤坂御用地から名を取って追号が赤坂院、「赤坂天皇」となる可能性だってあるでしょう。

赤坂御所入口
赤坂御所、明仁上皇が皇太子の時の東宮御所。今上天皇と入れ替わる形でここに転居し2020年にはここが仙洞御所と呼ばれることになる。

 はたまた、明仁上皇は世界的な生物学者で、特にハゼの研究では一流であり、すでに8種類の新種のハゼを見つけ、ハゼの分類において感覚器の位置を用いる分類法を確立させた一流の学者として世界的に認められています。明仁上皇や美智子上皇后が命名して和名となったハゼもいくつもあるのです。それどころか世界中の魚類学者が、明仁上皇の功績をたたえて、新種の魚の名称に Akihitoの名を関したものが登録されているのです。

 新種の生物の命名権が原則発見者にありますが、発見者はその新種の生物の学名に別の偉大な生物学者の名前を付けることがあります。これを献名といいます。そして、明仁上皇の凄いところは、属名に上皇の名前が献名されていることなのです。生物の分類は例えば羊であれば、「哺乳類、偶蹄目、反芻亜目、ウシ科、ヒツジ属、ヒツジ」というふうに目、科、属など分類がなされていますが、ハゼについていえば、「魚類、スズキ目、ハゼ亜目、ハゼ科、アキヒト属、フツナ」のように、いくつかの生物の種を束ねる属名に「アキヒト」が献名されているのです。属名、学名はのちに「新種とされた魚が存在しなかった」なんてことでもない限り抹消されることはありませんから、世界中の魚類図鑑に「ハゼ科アキヒト属」として未来永劫その名が刻まれるほどの功績を残しているということなのです。明仁上皇は天皇の職を譲位され後の余暇を利用してハゼの研究関連の論文を発表し、さらに功績が国内外から認められる可能性だってあります。その場合、その研究成果に因んだ追号がなされる可能性も十分に考えられます。

仙洞御所庭園の池
京都仙洞御所庭園の池…明仁上皇はこの池のハゼについても論文を発表し、自然界におけるハゼの異種間交雑について明らかにしている。

 30年間の在位から平成天皇とつけられる可能性だけでなく、「200年ぶり」、「400年ぶり」、「世界初」の功績をお持ちの天皇だったのですから、その功績を覚える追号が付けられる可能性だって十分あるわけです。であれば、のちのち、明仁上皇が「平成天皇」とは呼ばれない可能性すらあるのに、どうして「平成天皇」という追号が確定したかのように使用するのでしょうか?それは明治天皇を存在しない「慶応天皇」と呼ぶくらい、あるいは改元される元号が発表される前に勝手に新元号を予想して、その元号を使用するほど珍妙なことなのです。(明治天皇の即位時の元号は慶応だった)

「平成天皇」を用いる文章や講演は日本人に聞き入れられるか?

 で、私が一番心配しているのは、結局、「平成天皇」という表現を使う人の見識が問われ、彼ら自身の影響力が低下してしまうことなのです。彼らはキリスト教団体の集会で天皇制や元号について問題視し、その問題点を世に問いただしたいのでないのですか?みんなに自分の話を聞いてもらい、自分の主張を受け入れてもらいと思っているのではないのでしょうか?だのに「平成天皇」という表現を使うということ自体、「私は元号や天皇について全くの無知です」「天皇制や元号に口をはさむ資格を持ち合わせてはいません」ということになりはしないでしょうか?

 「平成天皇」の表現を使うキリスト者たちは、自分たちの主張を世の中に、あるいは政治的に保守的なキリスト者に知ってもらい、受け入れてもらいたいとは思わないのでしょうか? であれば、彼らが最低限聞く耳を持つ表現をつかわなければなりません。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」とは新約聖書マタイ伝の言葉ですが、皇室に好意を抱き、皇室を大切に敬っている人たちは「平成天皇」と表現を聞いただけで、その表現者に対して、「コイツあかんわ」とさじを投げてそれ以上話を聞かなくなるでしょう。自分たちの大切にしているものに対して最低限度の敬意を払えない者たちの主張等、聞いてもらえないという単純なことすら気づけないのでしょう。むしろ、自分たちの反対者を増やすことになることにどうしてきづかないのでしょうか?はたまた、彼らは日本のキリスト教界をわざと分断しようとしているのでしょうか?

もしかして、発するものも、聞くものも気づいていないのか?

 いや、真剣に心配になってきます。もし、私のズボンのチャックが空いていたら、私の友人は皆に気づかれないように、「社会の窓、空いているよ」ってコッソリ教えてくれます。私がわざわざ、天皇制廃止を訴える人々のことを心配してさしあげる必要もないのかもしれませんが・・・。

 杞憂であればいいのですが、でも、否定しえないひとつの結論に私は達しつつあります。そして、その結論は覆らないでしょう。単なるケアレスミスではなくて、原稿を書いた当人はもちろんのこと、その講演や文書を受け取る読者、聴衆も、誰一人、私がその「平成天皇」という表現に出くわすまで、誰一人指摘せず、誰一人気づかなかったということではないでしょうか。

 冒頭申し上げたように、私はこの2か月足らずの間にキリスト教団体の集会の中で3回も「平成天皇」という表現に出くわしています。同一人物が口癖のように放ったというのではなくて、日時も場所も、表現者もみなばらばらであるにも関わらずです。

 日本にキリスト者は1%もいません。親がクリスチャンで教会に名義だけ置いている人などを省けは 0.5%を切っているかもしれません。その 0.5%の中の半分近くの人は政治に関心があり、かつ左派的志向の持ち主かもしれません。であれば、キリスト者でありかつ天皇制を疑問視し、反対の声を挙げる人は、日本の全人口の 0.2%ほどなのかもしれません。しかし、その 0.2%の人たちが、その 0.2%の中で互いに評価しあい、互いの健闘をたたえ合っているのではないでしょうか?
その 0.2%の人が 99.8%の人に対して時より、世に対して、政府に対して、声明を発し、緊急アピールをすることがあります。が、外の 99.8%に対して通じる言葉を持たず、また、外の 99.8%からはどのように評価されているかについての耳をも持たずに 0.2%の中で自己完結してしまっているのではないでしょうか? 0.2%の人たちがそのような、知的ゲットーの中にいるように思えて仕方ないのです。

「平成天皇」その表現が上皇陛下に失礼であるだけではなくて、現在の日本のキリスト教界が抱える、世との断絶、浮世離れ、訴求力ある言葉の喪失、そういったものを如実に表しているように私は思うのです。

キリスト教の説教者は言葉の職業であります。是非とも、99.8%に伝わる表現を心がけていただきたいと切に切に願うものです。自戒を込めて。

最後に、99.8%の方へ

 私は今、「平成天皇」という表記を無意識に使ってしまう 0.2%の人に対して、どれほど人の心に届かない言葉を使っているかということを伝えるために、敢えて、天皇陛下や皇室に対して一切敬語を使わず、もとい上皇陛下存命中にその崩御後の話をするという不遜極まりない事をしました。が、本論考の主旨に鑑みご容赦賜りたく存じます。